![]() |
Friedrich.Wilhelm.Nietzsche(1844 - 1900) フリードリヒ=ウィルヘルム=ニーチェ |
ドイツの哲学者。思想家。 平等主義的倫理を弱者の奴隷道徳とみなし、ポピュリズム(大衆迎合主義)による社会の形成を批判した。そして強者による自律的道徳を説き、その具現者を「超越者」とする思想に達した。 彼の理想主義は崇高で純粋な精神に満ち溢れていたが、潔癖な人間像を求めるあまりに愚かな人間の存在する余地を否定すると誤解されることも少なからず、はからずも後世にある種の選民思想を誘導した。 またその大衆支配時代に対する批判は、ファシズムの支柱となった感は否めない。 著「ツァラトゥストラはかく語りき」「善悪の彼岸」「道徳の系譜学」「権力への意志」など。 ニーチェの説いた自律的道徳は崇高な理想主義であるが、その具現者たる「超越者」に潔癖なまでに万能な人間像を求めた。 ニーチェは、そこに伴うリスクを考慮しなかった。※ そしてはからずもナチスの選民思想を導く結果を招いた。 「超越者」は、やがてニーチェの手を離れ、一人歩きを始める。そして、権力に魅入られた者の病的な妄想に喧伝されることになる。 「超人」候補者が偉大なる賢者であれば問題は具現化しない。 「超人」候補者が自らを律し、適正に権力の行使をしたなら、ニーチェの理想郷は実現したかもしれない。 しかし「超越者」の名を語る後世の権力者は生身の人間だった。あまりに凡人だった。精神を蝕まれた病人だった。 この時代に生きる我々は、恣意的な世論誘導に翻弄された人々の圧倒的な支持を得て生み出される「超越者」の名を語る偽者が、この民主主義の名をかりた社会にこそ出現するということを肝に銘じておく必要がある。 ニーチェがポピュリズム(大衆迎合主義)を否定した理由は正にここにある。 ※そう、実は、ニーチェは「超越者」の名を語る独裁者の出現を予言していたのではないか。 それでは「超越者」の独裁が再び世界を破滅に導くとき、我々はどうするか。その答えは、皮肉にも「超越者」を説いたはずのニーチェ自身が導き出している点が興味深い。 善悪において一個の創造者になろうとするものは、まず破壊者でなければならない。そして、一切の価値を粉砕せねばならない(ニーチェ) 彼は敢えて逆説的に其の論を語っていたのかもしれない。 |
■ニーチェ入門
其の一:道徳の系譜
【善悪】創造の図
原始的な人類社会。
昔々、まだ喧嘩の強い人が一番偉かった頃。
殴られた人が、殴り返すことができなくて、負け惜しみを言いました。
「貴様らは悪の権化だ!」
そして自らを「善良な小市民」と名乗ったそうな。
「俺は善だ!喧嘩では負けたけど、善は悪より偉いんだぜぇぇえ?」
これを聞いた喧嘩の弱い人たちは、みな口々に、「俺は善だ。偉いんだ。」と言い始めました。
弱者は徒党を組み、集団の力を手に入れることができました。
こうして、喧嘩の強い人が一番偉い時代は終わりましたとさ。
「殴らない人」が「偉い」時代の始まりです。
【ニーチェの考察】既成概念について疑問を呈する。
其の弐:力への意志
≡何故、負けた人は、「俺は善だ!」と言い出した訳?
∴「勝ちたいからに決まってるじゃん!」■
この「勝ちたい」という気持ちを、ニーチェは「力への意志」と呼びました。
其の参:神は死んだ
ニーチェは人々の理解を得られないことに苦悩します。
その厳しい文明批評、時代批評は、ニーチェを一層孤独な境遇に追いやりました。
それでもニーチェは、既成概念の破壊をやめることができません。
そして自分にこう問うたのです。
≡俺はどうしてこんなに考えている訳?
∴「知りたいからに決まってるじゃん!知らないと惜しいから!要するにそれもこれも力への意志?結局すべて力への意志か!?」■
「善」のみならず「悪」、ニーチェの探究心もまた「力への意志」でした。
強者の論理も、弱者の論理も、そして絶対的な真理であるはずの「神」でさえも、すべて等しく「力への意志」の産物であることにニーチェは気付いたのです。
人を殴ること=悪
こういう等式があったとします。
この等式は、殴られた人が、それでも自分が勝ちたいがために作り出した願望の結晶です。
「弱者」は、どうしたら「強者」を陥れることができるか考えました。
善良な小市民=本当は負けたのに負けを認めたくない弱い人々
「善」が誕生した心理的プロセスを、ニーチェはこのように紐解いたのです。
この世界には、絶対的に正しい解など存在しない。
ただ人の数だけの認識、そして解釈があるだけだと。
従って、絶対的な真理であるはずの「神」など存在することはできない。
こうして、神は死にました。
其の四:永遠回帰
≡世界は欺瞞だらけで人間なんて弱虫で最低な生き物だな。さて俺はどうするか。
∴ただありのままの世界を生きればよい
もし、この人生が永遠に繰り返されるとしたら?
既存の宗教観の多くでは、与えられた人生は有限です。
死んだら人生は終わります。良い魂は天国に行き、悪い魂は地獄に行きます。
またある宗教では、魂は輪廻転生して次の時代に他の何かに生まれ変わります。
いずれにしても「この人生」は、死んだら終わりです。
ニーチェは、「この人生」が永遠だとして、君はそれに耐えられますか?と、挑戦的に問いかけます。
ニーチェは、「ja(はい)」と言いました。
喜んで何度でも繰り返しましょう、と。
ニーチェは、既存の宗教的観念を「弱者の奴隷道徳」として厳しく批判しました。
その根底に、報われない人生に対する怨念、後悔の念を見て取ったからです。
ニーチェは、現世に対する負の感情を断罪したのです。
吐き気がするほど弱い、人間たちの人生は、それでも永遠に繰り返したいと思えるほどに、美しいものなのだ、と。
世界は既にそこにある。ただありのままの人生を生きればいい。遊ぶ幼子のように。
認識も解釈も不要であると。
ニーチェは、既成概念の縛りにとらわれない、自律的な行動規範に基づく人々の理想郷を思い描いていたはずです。
時代の要請に飽くまで「アンチ(否定)」の姿勢を貫き通したニーチェ。彼は自身の論法を完全肯定し、自らへの賞賛をはばかりませんでした。
ニーチェは、意図的に周囲を挑発していたのではないでしょうか。生来孤独な彼は、絶えず人々の注目を欲していたはずです。
その意味でいえば、ニーチェもまた人の子、常に孤独に苦しむ弱い人間だったのかもしれません。
その孤高の哲学から生み出される厳しい文明批評、時代批評は、ニーチェを一層孤独な境遇に追いやりました。
ニーチェは生涯独身でした。生涯一度のプロポースは拒絶され、彼女は新しい男と共にニーチェの元を去るのです。
ルー・ザロメ。知的で意志が強く、しかも性的魅力に秀でた美しい女性だったそうです。完全主義、潔癖、女性を信じなかったニーチェがその生涯でたった一度だけ愛した女性でした。
1978年ニーチェ45歳の時、脳梅毒が悪化し発狂。精神が亢進し、精神活動が盛んになるこの10年の間(1979 - 1988)に、彼は数々の著作を残しました。
そして晩年の1889年、ついにトリノのカルロ・アルベルト広場で昏倒し、イェーナ大学病院精神科へ入院します。この時点で、ニーチェはその脳髄に異状をきたしたといわれています。
1900年、ついに狂気に倒れ、狂い死にます。享年56歳。
生涯年譜としては、Friedrich
Nietzsche: Chronik in Bildern und Texten(Deutscher Taschenbuch Verlag, 2000/12)に詳しい。
http://www.logico-philosophicus.net/profile/NietzscheFriedrich.htm |
1844年10月15日、プロシアのザクセン州リュッツェン近郊レッケの牧師館で生まれる。父カール・ルードヴィッヒ・ニーチェはプロテスタントの牧師。母はフランツィスカ。5歳の時、父と死別。
1858年、プフォルタ学院入学。 1860年、幼なじみと三人で文学・音楽研究会「ゲルマニア」を作り、毎月作曲や論文を持ち寄る活動を63年まで続ける。 1864年、プフォルタ学院卒業。卒業論文は「メガラのテオグニスについて」。同年10月にボン大学入学。文献学、神学を専攻。 1865年、ライプツィッヒ大学へ移る。この頃、古本屋でショーペンハウアーの『意志と表象の世界』を手にいれ、耽読する。 1867年、ナウムブルク野戦砲兵連隊騎兵大隊入隊。 1868年10月、除隊しライプツィッヒ大学へ復学。この頃、以前より作品に惚れこんでいたヴァーグナーと会う。 1869年、無試験で博士号を取得。25歳でバーゼル大学の員外教授に着任し、古典文献学、ラテン語などの講義を持つ。 1870年08月、休職して普仏戦争に看護兵として従軍。10月、病気のため除隊。 1872年、前年に執筆した処女作『音楽の精神からの悲劇の誕生』を出版。古典ギリシアから同時代人ヴァーグナーへ通ずる芸術批判を展開する。しかし優れた文献学者としての仕事を期待していた周囲からは否定的に扱われた。以後も講義をする傍ら、『反時代的考察』(1873-76)の各篇ほかを執筆、刊行。『人間的、あまりに人間的』を出版した。 1878年には健康状態が悪化し、翌年バーゼル大学を退職。この頃、第一回バイロイト祝祭劇(1876)でヴァーグナーに失望していたニーチェはヴァーグナーとの対立を深める。イタリア、スイス各地を旅しながら、狂気に倒れる。 1889年までの間、『曙光』(1881年出版)、『悦ばしい知識』(1882年完成)、『ツァラトゥストラはかく語りき』(1883 - 1885)、『善悪の彼岸』(1886年出版)、『道徳の系譜』(1887年出版)、『ヴァーグナーの場合』、『偶像の黄昏』、『反キリスト者』、『この人を見よ』、『ニーチェ対ヴァーグナー』、『ディオニュソス―頌歌』(以上はすべて1888年完成)など旺盛な思索・執筆活動を行う。この時期に書き継がれた未出版の断想・遺稿はコッリ&モンティナーリ版全集で5巻分にのぼる。 1889年、トリノのカルロ・アルベルト広場で昏倒。イェーナ大学病院精神科へ入院。 1890年、ナウムブルクにある母の自宅に引き取られる。この頃、夫の自殺を契機に移住先のパラグアイから帰国した妹エリーザベトがニーチェ作品の刊行に干渉をはじめ、 1894年には自ら「ニーチェ文庫」を創設。かねてより全集の刊行を計画し作業を進めていたペーター・ガストはエリーザベトにより作業を中止に追い込まれる。 1897年の母の死を契機に、エリーザベトは兄のニーチェをワイマールへ移す。 1900年08月25日、ニーチェ死去。亡骸は故郷レッケンに埋葬される。『権力への意志』は、ニーチェの歿後である1901年、エリーザベトが遺稿を編集して出版したもの。 |
※リヒャルト・シュトラウスがニーチェのテキストにより交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」を作曲したのは1896年のことです。
■デカタンス(decatence)/デカダン
十九世紀末期に起こった、フランス象徴派の芸術家に見られる、唯美的・反社会的な傾向。
〔広義では、さほど積極的な芸術活動をするわけでもないが、生活傾向だけは
頽廃的である人をも指す〕
頽廃派(の芸術家)。Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997
■ニヒリズム(nihilism)
虚無主義。
ニーチェは、受動的ニヒリズムを人生の目標や意義を見失って刹那的享楽や絶望に逃避する態度として批判した。
そして、能動的ニヒリズムを人生の悲惨さを直視し乗り越えようとする態度として積極的に提唱した。
■ルサンチマン(ressentiment)
怨念と訳されるフランス語であるが、ニーチェ独自の用法によれば、既成道徳の根底にある弱者の復讐心のことを指している。
平等主義的道徳が「同情」「平等」「博愛」を説いていても、それは競争弱者の「反感」「嫉妬」「憎悪」の裏返しでしかない、という現実主義的観測。
世の中に対する強烈な憎悪、それは競争弱者の逆恨み的妄想なのですが、それが本来強者への怨念であるにもかかわらず、復讐は自分より弱いものへの暴行、虐待という形であらわれています。
■弱者の奴隷道徳
ニーチェが平等主義的道徳を批判して用いたことば。
その根底に競争弱者の報われない人生に対する怨念、後悔の念を見て取った。
■権力への意志
一切の抵抗を克服して、たえず強大になろうとする本源的な生命力をさす。自己実現力と解される。
要は、目標達成に向かって努力し続ける意志の強さを説いた。
■「神は死んだ」
その著書『ツァラトゥストラはかく語りき』の中に記された、ニーチェの最も有名な言葉。
キリスト教を中心とするヨーロッパの伝統的価値観がもはや生命力を失い、人間に自己欺瞞をもたらせているという思想を象徴したもの。
Gott is tot.と表記されていることから、「神は死んだ」というより「神は死んでいる」のほうがよい。
語られざるニーチェ晩年の著作(1889.1 - )
1889年、ニーチェはトリノのカルロ・アルベルト広場で昏倒し、イェーナ大学病院精神科へ入院します。
この時点で、ニーチェは完全なキチガイです。彼はこの後も著述を続けようとしますが、この頃の著作はもはや狂気の沙汰でした。
彼の「超越者」は大きな屁をこき、大きな糞をたれるようになっていた。
痴呆により糞尿を垂れ流すニーチェ自身の姿は、まさに狂気狂喜の「超越者」そのものだったはずです。
晩年のニーチェは、自身の思想の最後の隠喩として、屁や糞を好んだ。
しかしそれも、反時代的精神の化身であった彼のシンボル、たとえば「道化」の行き着く処を考察すれば、あながち狂気の所産とは言えないだろう。
否、むしろニーチェ思想のシンボルとしての「糞尿」は、彼の存在が臭うがごとく、むしろふさわしいとさえ思えるのである。
ニーチェはその人生において、常に自分を肯定した。若い頃から様々な病気に苦しんだが、本質的に健康だと主張した。
理解を得られず、反感の渦に取り囲まれて、様々な誹謗中傷を受けたが、「私に悪意を持っているものはほとんどいない。」と言い切った。
そして最後まで自己を肯定することに徹したのだ。
ニーチェは、脳梅毒による精神錯乱で多幸感の中、死去したといわれています。
脳梅毒により精神が亢進し、死の直前に精神活動が盛んになる例は他にも作家のモーパッサン(1850~1893)、作曲家のドニゼッティ(1797~1848)、スメタナ(1824~1884)、ヴォルフ(1860~1903)らが知られています。
生前のニーチェは「変質者」の類い、ほとんど世間に相手にされませんでした。その頃の世間のニーチェに対する反応については記録も無いのでまったく推測の域を出ませんが、白い目で中傷、嘲笑され、おそらくキチガイの厄介者扱いを受けていたと思われます。
彼の著作に対する評価が高まったのは、ニーチェの死後、権謀術数に優れていた妹のエリーザベトによる出版が契機となりました。ニーチェ自身の手による原論文からは、かなりの校正と編集が施されていた様です。